2008年12月30日
李香蘭と佐賀
山口淑子さんの『「李香蘭」を生きて』を最近読みました。

李香蘭といえば、戦前、日本と中国で一世を風靡した大スター。戦後は山口(大鷹)淑子として、参議院議員となって活躍した女性です。母国は中国、祖国は日本-という特殊なアイデンティティーを持つ彼女の生涯は、本当の意味で「波乱」と言えるのではないでしょうか。過去の日中の不幸な歴史の象徴的な前半生ですが、彼女の手記を読むと、彼女であればこそこうした波乱の人生を生き抜くことができた、と思えてきます。人とは不思議なもので、「持って生まれたもの=天賦の才とでもいいましょうか・・・」に応じた人生があるんだなと感じます。
さて、李香蘭こと山口淑子女史は、佐賀県にゆかりのある方でもあります。お父上の山口文雄氏は独学で中国語を学び、中国に渡ってからは満鉄で職員に対して中国語や中国事情を教える仕事に就いていたそうです。文雄氏は佐賀県杵島郡北方村(現在は武雄市)の出身で、もともと佐賀藩士族の家とのことです。
山口女史が日本の敗戦後、漢奸罪で中国国民党当局に逮捕され、軍事裁判にかけられます。家族からは、本籍地である佐賀県杵島郡北方村長の公印のある戸籍簿が法廷に提出されました。そのことで、李香蘭が日本人であることが証明され、漢奸罪の適用が免れたといわれています。しかし、中国軍の裁判官は、法的な罪はないとしながらも、中国名を芸名で名乗り、中国人として日本のプロパガンダ映画に出た道義的責任はあるとコメントしたそうです。また、当局者からは日本人であっても中国に育てられたことを忘れないでほしいとコメントもあったそうです。きっと、この言葉は山口女史の後半生にとってとても大切な言葉になったのでしょう。
李香蘭こと山口淑子女史の波乱の生涯は、日中関係の重要な歴史となるに違いありません。
なお、昨日と本日、テレビ東京で2月に放映されたドラマ「李香蘭」(上戸彩さん主演)の再放送がありました。
主宰者拝

李香蘭といえば、戦前、日本と中国で一世を風靡した大スター。戦後は山口(大鷹)淑子として、参議院議員となって活躍した女性です。母国は中国、祖国は日本-という特殊なアイデンティティーを持つ彼女の生涯は、本当の意味で「波乱」と言えるのではないでしょうか。過去の日中の不幸な歴史の象徴的な前半生ですが、彼女の手記を読むと、彼女であればこそこうした波乱の人生を生き抜くことができた、と思えてきます。人とは不思議なもので、「持って生まれたもの=天賦の才とでもいいましょうか・・・」に応じた人生があるんだなと感じます。
さて、李香蘭こと山口淑子女史は、佐賀県にゆかりのある方でもあります。お父上の山口文雄氏は独学で中国語を学び、中国に渡ってからは満鉄で職員に対して中国語や中国事情を教える仕事に就いていたそうです。文雄氏は佐賀県杵島郡北方村(現在は武雄市)の出身で、もともと佐賀藩士族の家とのことです。
山口女史が日本の敗戦後、漢奸罪で中国国民党当局に逮捕され、軍事裁判にかけられます。家族からは、本籍地である佐賀県杵島郡北方村長の公印のある戸籍簿が法廷に提出されました。そのことで、李香蘭が日本人であることが証明され、漢奸罪の適用が免れたといわれています。しかし、中国軍の裁判官は、法的な罪はないとしながらも、中国名を芸名で名乗り、中国人として日本のプロパガンダ映画に出た道義的責任はあるとコメントしたそうです。また、当局者からは日本人であっても中国に育てられたことを忘れないでほしいとコメントもあったそうです。きっと、この言葉は山口女史の後半生にとってとても大切な言葉になったのでしょう。
李香蘭こと山口淑子女史の波乱の生涯は、日中関係の重要な歴史となるに違いありません。
なお、昨日と本日、テレビ東京で2月に放映されたドラマ「李香蘭」(上戸彩さん主演)の再放送がありました。
主宰者拝
2008年12月29日
吉岡安直陸軍中将の話
今、『満州国皇帝の秘録-ラストエンペラーと「厳秘会見録の謎」』(中田整一著)という本を読んでいます。

吉岡安直陸軍中将という陸軍の将軍のことを皆さんはご存知でしょうか? 実はこの将軍、満州国皇帝であった溥儀氏の御用掛として日本陸軍関東軍から派遣された人物です。溥儀氏やその弟溥傑氏の後の著述などから、この吉岡将軍が関東軍の威光を背景にさんざん横暴な振る舞いがあったとして、ドラマや書籍などでも、悪役のレッテルを貼られています。溥傑氏の妻浩(嵯峨侯爵家の令嬢)の著作でも、辛口に書かれています。
吉岡将軍は、九州の大分県の生まれですが、長じて佐賀県の吉岡家に養子入りしているため、本籍は「佐賀県」となっていて、資料にっては「佐賀県出身」としているものもあります。
吉岡将軍は、上述のとおりいわゆる「悪役」のレッテルを貼られていたのですが、実はちょっと違うようです。吉岡将軍は、関東軍と皇帝溥儀氏の間で板挟みとなり苦悩していたことや、溥儀氏に忠誠を尽くしていたこと、溥儀氏と趣味を同じくしその話題で親しく会話していることなどの秘話があり、溥儀氏もとても頼りにしておられたそうです。そのような話から、決して悪い人物ではなかったようです。溥儀氏も後になって、自己保身のために吉岡将軍を悪者にしたことを悔いる発言があったそうです。
吉岡安直陸軍中将の話は、『満州国皇帝の秘録-ラストエンペラーと「厳秘会見録の謎」』に詳しく書かれています。佐賀県にゆかりのある人物として、吉岡将軍の本来の人物像が明らかになるといいなと思います。しかし、後年に溥傑氏に吉岡将軍の遺族からの手紙を手渡した際、溥傑氏は喜ばなかったというエピソードもあり、吉岡将軍も良い部分もあった一方で、陸軍の威光を背景に横柄な振る舞いもあったのもまた事実のようです。吉岡将軍は、溥儀・溥傑両氏とともにソ連軍に逮捕されて、シベリアに送られ、モスクワで病死しています。
主宰者拝

吉岡安直陸軍中将という陸軍の将軍のことを皆さんはご存知でしょうか? 実はこの将軍、満州国皇帝であった溥儀氏の御用掛として日本陸軍関東軍から派遣された人物です。溥儀氏やその弟溥傑氏の後の著述などから、この吉岡将軍が関東軍の威光を背景にさんざん横暴な振る舞いがあったとして、ドラマや書籍などでも、悪役のレッテルを貼られています。溥傑氏の妻浩(嵯峨侯爵家の令嬢)の著作でも、辛口に書かれています。
吉岡将軍は、九州の大分県の生まれですが、長じて佐賀県の吉岡家に養子入りしているため、本籍は「佐賀県」となっていて、資料にっては「佐賀県出身」としているものもあります。
吉岡将軍は、上述のとおりいわゆる「悪役」のレッテルを貼られていたのですが、実はちょっと違うようです。吉岡将軍は、関東軍と皇帝溥儀氏の間で板挟みとなり苦悩していたことや、溥儀氏に忠誠を尽くしていたこと、溥儀氏と趣味を同じくしその話題で親しく会話していることなどの秘話があり、溥儀氏もとても頼りにしておられたそうです。そのような話から、決して悪い人物ではなかったようです。溥儀氏も後になって、自己保身のために吉岡将軍を悪者にしたことを悔いる発言があったそうです。
吉岡安直陸軍中将の話は、『満州国皇帝の秘録-ラストエンペラーと「厳秘会見録の謎」』に詳しく書かれています。佐賀県にゆかりのある人物として、吉岡将軍の本来の人物像が明らかになるといいなと思います。しかし、後年に溥傑氏に吉岡将軍の遺族からの手紙を手渡した際、溥傑氏は喜ばなかったというエピソードもあり、吉岡将軍も良い部分もあった一方で、陸軍の威光を背景に横柄な振る舞いもあったのもまた事実のようです。吉岡将軍は、溥儀・溥傑両氏とともにソ連軍に逮捕されて、シベリアに送られ、モスクワで病死しています。
主宰者拝
2008年12月26日
『大隈重信と江副廉蔵』
またまた新刊の紹介です。

郷土史研究家・末岡暁美先生の『大隈重信と江副廉蔵』が佐賀県の洋学堂書店から昨日刊行されました。江副家はもともと龍造寺家の時代からの譜代家臣の家柄で、大隈重信侯の先妻美登夫人は、江副家の出です。
末岡先生は、佐賀県郷土史研究家の間でも有名なBlog「幕末・明治の肥前 こぼれ話」のブロガーで、研究誌などにも、明治以降の佐賀県と沖縄県の人的関係の深さなどを紹介されています。
末岡先生もまた、郷土への熱き思いを持っておられ、極めて地道な研究活動を行っておられます。私が尊敬するのが、とくに郷土の人物に対する思いです。末岡先生の文章を読むと心温まるのを感じるのは、おそらく末岡先生のお人柄から来ているのではないかと思います。
今から読むのが楽しみです。
主宰者拝

郷土史研究家・末岡暁美先生の『大隈重信と江副廉蔵』が佐賀県の洋学堂書店から昨日刊行されました。江副家はもともと龍造寺家の時代からの譜代家臣の家柄で、大隈重信侯の先妻美登夫人は、江副家の出です。
末岡先生は、佐賀県郷土史研究家の間でも有名なBlog「幕末・明治の肥前 こぼれ話」のブロガーで、研究誌などにも、明治以降の佐賀県と沖縄県の人的関係の深さなどを紹介されています。
末岡先生もまた、郷土への熱き思いを持っておられ、極めて地道な研究活動を行っておられます。私が尊敬するのが、とくに郷土の人物に対する思いです。末岡先生の文章を読むと心温まるのを感じるのは、おそらく末岡先生のお人柄から来ているのではないかと思います。
今から読むのが楽しみです。
主宰者拝
2008年12月25日
『成富兵庫茂安』
新刊のご紹介です。

元・佐賀県庁職員の郷土史研究家・田中耕作先生の新著『成富茂安~佐賀藩の初期を支えた男-戦場に、外交に、そして治水に-』が佐賀新聞社から出版されました。田中先生は、過去、佐賀藩主を取り上げた鍋島藩シリーズ3冊、藩祖鍋島直茂公を取り上げた1冊、「葉隠」を生んだ中野一門を取り上げた1冊を執筆され、今回は6冊目の著作。私も田中先生の著作は欠かさず読んでいます。
今回は、龍造寺家・鍋島家の重臣として活躍し、佐賀藩草創期に多彩な才能を持って藩の成立に貢献した成富茂安を取り上げられています。私自身、成富茂安の連肢にあたることもあり、ぜひ買い求めたいと思っています。
私は佐賀県の郷土史研究家として、福岡博先生、田中耕作先生、末岡暁美先生を大変尊敬しており、私もゆくゆくはこの先生方のような郷土文化の振興に貢献できる在野の研究家でありたい、と思っています。いずれの先生方も、著作を読むとよくわかりますが、佐賀に対する「熱い思い」が伝わってきます。また、地道な研究をされてきた足跡が窺い知れます。
皆さまもぜひご一読を。
主宰者拝

元・佐賀県庁職員の郷土史研究家・田中耕作先生の新著『成富茂安~佐賀藩の初期を支えた男-戦場に、外交に、そして治水に-』が佐賀新聞社から出版されました。田中先生は、過去、佐賀藩主を取り上げた鍋島藩シリーズ3冊、藩祖鍋島直茂公を取り上げた1冊、「葉隠」を生んだ中野一門を取り上げた1冊を執筆され、今回は6冊目の著作。私も田中先生の著作は欠かさず読んでいます。
今回は、龍造寺家・鍋島家の重臣として活躍し、佐賀藩草創期に多彩な才能を持って藩の成立に貢献した成富茂安を取り上げられています。私自身、成富茂安の連肢にあたることもあり、ぜひ買い求めたいと思っています。
私は佐賀県の郷土史研究家として、福岡博先生、田中耕作先生、末岡暁美先生を大変尊敬しており、私もゆくゆくはこの先生方のような郷土文化の振興に貢献できる在野の研究家でありたい、と思っています。いずれの先生方も、著作を読むとよくわかりますが、佐賀に対する「熱い思い」が伝わってきます。また、地道な研究をされてきた足跡が窺い知れます。
皆さまもぜひご一読を。
主宰者拝
2008年12月24日
昭和7年(1932)頃の「KNC」の佐賀県出身者
こんにちは。主宰者の石井です。
昨日、このBlogで佐賀県出身の森武海軍少佐について紹介しましたが、森氏の母校である現在の国立神戸大学海事科学部(旧制官立神戸高等商船学校=Kobe Nautical College【KNC】)は、佐賀県からも多くの進学者があったようです。ウェブサイトで紹介している石井利雄海軍中尉もまた、佐賀県出身で、佐賀県立佐賀中学校(現在の県立佐賀西高校)からKNCに進んでいます。思えば、幕末の時代、佐賀藩では第10代藩主鍋島閑叟公の指揮の下、近代的な造船・造機、操船の技術移入や教育が盛んで、自前で造船所や海軍学校を作ってしまったほどでした。KNCに佐賀県出身者が多いのも、その影響が少なからずあるのではないでしょうか。

上の写真は、当時のKNCの本館校舎です。現在は国立神戸大学深江キャンパスになっています。本館の建物は昭和20年(1945)に二度にわたる空襲を受けて焼失し、現存していません。

上の写真は、昭和7年頃のKNCの佐賀県出身の生徒たちです。この中には、昭和9年(1934)卒業の森武氏も含まれているものと思います。この写真の中の若者たちも、数年後に勃発する太平洋戦争に多くが動員され、中には戦死された方もおられるそうです。
今の日本の礎に、佐賀人の先輩たちの血と汗がたくさんにじんでいることを我々も誇りに思いたいものですね。
主宰者拝
昨日、このBlogで佐賀県出身の森武海軍少佐について紹介しましたが、森氏の母校である現在の国立神戸大学海事科学部(旧制官立神戸高等商船学校=Kobe Nautical College【KNC】)は、佐賀県からも多くの進学者があったようです。ウェブサイトで紹介している石井利雄海軍中尉もまた、佐賀県出身で、佐賀県立佐賀中学校(現在の県立佐賀西高校)からKNCに進んでいます。思えば、幕末の時代、佐賀藩では第10代藩主鍋島閑叟公の指揮の下、近代的な造船・造機、操船の技術移入や教育が盛んで、自前で造船所や海軍学校を作ってしまったほどでした。KNCに佐賀県出身者が多いのも、その影響が少なからずあるのではないでしょうか。

上の写真は、当時のKNCの本館校舎です。現在は国立神戸大学深江キャンパスになっています。本館の建物は昭和20年(1945)に二度にわたる空襲を受けて焼失し、現存していません。

上の写真は、昭和7年頃のKNCの佐賀県出身の生徒たちです。この中には、昭和9年(1934)卒業の森武氏も含まれているものと思います。この写真の中の若者たちも、数年後に勃発する太平洋戦争に多くが動員され、中には戦死された方もおられるそうです。
今の日本の礎に、佐賀人の先輩たちの血と汗がたくさんにじんでいることを我々も誇りに思いたいものですね。
主宰者拝
2008年12月23日
葉隠に生きる-森武氏
今日は天皇誕生日(天長節)であると同時に、目立たずも、東条英機元総理ら、極東国際軍事裁判(東京裁判)で絞首刑判決を受けたA級戦犯7氏の命日でもあります。
報道では陛下がこのところ体調を崩されているとの由。ご快復を祈念するとともに、陛下のお言葉である「英知を結集し・・・」と不況時代の国民へ贈られた激励のお言葉も胸に刻みたいところです。

さて、今日は佐賀県出身の森武氏について紹介したいと思います。この名を聞いたことがある方はほとんどおられないと思いますが、森氏は生前『葉隠に生きる』という自叙伝を執筆されています。
森氏は、明治43年(1910)に佐賀県に生まれ、現在の神戸大学海事科学部(当時の官立神戸高等商船学校航海科)を昭和9年(1934年)に卒業され、翌年、川崎汽船株式会社に入社。昭和15年(1940)、海軍に応召し、戦争末期は海軍の海防艦82号の艦長をされていました。
終戦直前に、ソビエト連邦が我が国へ宣戦布告し、参戦。その頃、朝鮮の清津から日本に向けて出港した貨物船「向日丸」を護衛するため、森艦長が指揮を執る海防艦82号が随伴し、日本海上にありました。ソ連の攻撃機が、向日丸を攻撃した際、護衛の海防艦82号が果敢に応戦、向日丸の楯となって沈没。森艦長は海に投げ出されて、向日丸によって救出されました。このとき、犠牲を顧みず貨物船を守って、みずからの任務を全うするその心意気と行動に、向日丸の乗組員が大変感激したそうです。
森氏は、海軍少佐で終戦を迎え、その後、海上保安庁に奉職。各地の保安部長、巡視船長を歴任し、退官後は大阪造船所、太平洋汽船に勤務し、さらに茨城県日立港水先案内人などをつとめられ、平成4年(1993)に逝去されています。
詳しくは、「硝煙の海」という向日丸元通信士の方が主宰するウェブサイトに詳しく載っていますので、ぜひ一度ご覧ください。自伝の『葉隠に生きる』というタイトルにもありますとおり、森氏もまた、佐賀の精神文化「葉隠」のこころを大切にし、その精神を体現した方であったといえましょう。森氏のことは今度調べて、随筆でも書きたいと思っています。
主宰者拝
【訂正】
向日丸について、上記文章では、朝鮮清津港から海防艦第82号とともに出港した旨、記載しておりますが、事実はソ連軍機の空襲により、羅津港から退避した向日丸を、沈没した輸送船の救助活動のため作戦行動中だった第82号海防艦が発見し、向日丸の護衛についた、というのが正しいとのことです。お詫びして訂正いたします。
報道では陛下がこのところ体調を崩されているとの由。ご快復を祈念するとともに、陛下のお言葉である「英知を結集し・・・」と不況時代の国民へ贈られた激励のお言葉も胸に刻みたいところです。

さて、今日は佐賀県出身の森武氏について紹介したいと思います。この名を聞いたことがある方はほとんどおられないと思いますが、森氏は生前『葉隠に生きる』という自叙伝を執筆されています。
森氏は、明治43年(1910)に佐賀県に生まれ、現在の神戸大学海事科学部(当時の官立神戸高等商船学校航海科)を昭和9年(1934年)に卒業され、翌年、川崎汽船株式会社に入社。昭和15年(1940)、海軍に応召し、戦争末期は海軍の海防艦82号の艦長をされていました。
終戦直前に、ソビエト連邦が我が国へ宣戦布告し、参戦。その頃、朝鮮の清津から日本に向けて出港した貨物船「向日丸」を護衛するため、森艦長が指揮を執る海防艦82号が随伴し、日本海上にありました。ソ連の攻撃機が、向日丸を攻撃した際、護衛の海防艦82号が果敢に応戦、向日丸の楯となって沈没。森艦長は海に投げ出されて、向日丸によって救出されました。このとき、犠牲を顧みず貨物船を守って、みずからの任務を全うするその心意気と行動に、向日丸の乗組員が大変感激したそうです。
森氏は、海軍少佐で終戦を迎え、その後、海上保安庁に奉職。各地の保安部長、巡視船長を歴任し、退官後は大阪造船所、太平洋汽船に勤務し、さらに茨城県日立港水先案内人などをつとめられ、平成4年(1993)に逝去されています。
詳しくは、「硝煙の海」という向日丸元通信士の方が主宰するウェブサイトに詳しく載っていますので、ぜひ一度ご覧ください。自伝の『葉隠に生きる』というタイトルにもありますとおり、森氏もまた、佐賀の精神文化「葉隠」のこころを大切にし、その精神を体現した方であったといえましょう。森氏のことは今度調べて、随筆でも書きたいと思っています。
主宰者拝
【訂正】
向日丸について、上記文章では、朝鮮清津港から海防艦第82号とともに出港した旨、記載しておりますが、事実はソ連軍機の空襲により、羅津港から退避した向日丸を、沈没した輸送船の救助活動のため作戦行動中だった第82号海防艦が発見し、向日丸の護衛についた、というのが正しいとのことです。お詫びして訂正いたします。
2008年12月22日
『朝香宮家に生まれて―侯爵夫人鍋島紀久子が見た激動の時代』
こんんばんは。主宰者の石井です。
今日は、東京も夕方から雨で、気温も低く、勤務先からの帰路はとても厳しい寒さでした。

さて、今日は佐賀藩関係の本の紹介です。佐賀藩関係といっても歴史書ではなく、明治から昭和に生きたある女性の人生を描いた作品で、タイトルは『朝香宮家に生まれて-侯爵夫人鍋島紀久子が見た激動の時代』。著者は、旧佐賀藩主鍋島家の第十三代当主直泰侯爵と夫人紀久子さんの長女北風倚子さん。
この本の主人公紀久子夫人は、旧皇族朝香宮鳩彦王の令嬢で、鍋島侯爵家に嫁ぐまで、「紀久子女王殿下」と呼ばれた人。若いころの写真はとてもお綺麗です。なお、母方の御祖父様は明治天皇です。明治から昭和の激動の時代、女王として育ち、華族夫人として過ごし、敗戦後は一市民として暮らしたその人生はなかなか興味深いものがあります。とくに、晩年の暮らしについては、我々一般市民と変わらぬ暮らしぶりで、鍋島家の旧臣筋にあたる私などは、やや不憫な思いも感じました。
でも、時代の変化に暮らしぶりも激変する中でも、「家族」を大切にしてきた紀久子夫人と、著者の北風氏の思いはなんとなく伝わった気がして、なかなか素敵な本だったと思います。
皆さんも是非、ご一読を。
追記ですが、鍋島直泰氏と紀久子夫人の長男で、鍋島家第十四代当主直要氏は、今年の初夏、お亡くなりになられています。現在の当主は第十五代直晶氏(財団法人鍋島報效会理事長)とのことです。
主宰者拝
今日は、東京も夕方から雨で、気温も低く、勤務先からの帰路はとても厳しい寒さでした。

さて、今日は佐賀藩関係の本の紹介です。佐賀藩関係といっても歴史書ではなく、明治から昭和に生きたある女性の人生を描いた作品で、タイトルは『朝香宮家に生まれて-侯爵夫人鍋島紀久子が見た激動の時代』。著者は、旧佐賀藩主鍋島家の第十三代当主直泰侯爵と夫人紀久子さんの長女北風倚子さん。
この本の主人公紀久子夫人は、旧皇族朝香宮鳩彦王の令嬢で、鍋島侯爵家に嫁ぐまで、「紀久子女王殿下」と呼ばれた人。若いころの写真はとてもお綺麗です。なお、母方の御祖父様は明治天皇です。明治から昭和の激動の時代、女王として育ち、華族夫人として過ごし、敗戦後は一市民として暮らしたその人生はなかなか興味深いものがあります。とくに、晩年の暮らしについては、我々一般市民と変わらぬ暮らしぶりで、鍋島家の旧臣筋にあたる私などは、やや不憫な思いも感じました。
でも、時代の変化に暮らしぶりも激変する中でも、「家族」を大切にしてきた紀久子夫人と、著者の北風氏の思いはなんとなく伝わった気がして、なかなか素敵な本だったと思います。
皆さんも是非、ご一読を。
追記ですが、鍋島直泰氏と紀久子夫人の長男で、鍋島家第十四代当主直要氏は、今年の初夏、お亡くなりになられています。現在の当主は第十五代直晶氏(財団法人鍋島報效会理事長)とのことです。
主宰者拝
2008年12月21日
師走を迎えて。
皆様、大変ご無沙汰しております。主宰者の石井でございます。
小生、このところ大変多忙につき、ウェブサイトの更新もままならず、日頃よりウェブサイトの運営にご協力いただいている皆様、ご愛顧いただいている皆様には、大変失礼いたしました。
季節も早いもので師走を迎えましたが、皆様、いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか? 今年も一年、大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
来年はウェブサイトの大幅なリニューアルを考えております。従来、できるだけ多く、詳細な情報を発信してまりましたが、今後はもう少し、シンプルに、それでありながら、一般の方にも親しみを感じてもらえるウェブサイトにしていきたいと考えています。皆様のご意見やご助言、お待ちしております。
中断していた「葉隠日誌」もこの“さがファン”ブログに移設し、できるだけ頻繁に記事を書いていきたいと思っています。皆様のご愛読をよろしくお願いいたします。
■佐賀鍋島藩石井家オフィシャルウェブサイト(http://jp.nabeshima-ishii.com)
主宰者拝
小生、このところ大変多忙につき、ウェブサイトの更新もままならず、日頃よりウェブサイトの運営にご協力いただいている皆様、ご愛顧いただいている皆様には、大変失礼いたしました。
季節も早いもので師走を迎えましたが、皆様、いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか? 今年も一年、大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
来年はウェブサイトの大幅なリニューアルを考えております。従来、できるだけ多く、詳細な情報を発信してまりましたが、今後はもう少し、シンプルに、それでありながら、一般の方にも親しみを感じてもらえるウェブサイトにしていきたいと考えています。皆様のご意見やご助言、お待ちしております。
中断していた「葉隠日誌」もこの“さがファン”ブログに移設し、できるだけ頻繁に記事を書いていきたいと思っています。皆様のご愛読をよろしくお願いいたします。
■佐賀鍋島藩石井家オフィシャルウェブサイト(http://jp.nabeshima-ishii.com)
主宰者拝