2009年01月25日
春の甲子園高校野球
皆様、ご無沙汰しております。主宰者の石井です。
先週は海外出張に行っていたため、Blogの更新が久しぶりとなりました。皆様いかがお過ごしでしょうか?
さて、先日、春の甲子園高校野球の出場校が決定したとのニュースがありました。夏の甲子園高校野球は、各県から代表校が予選を経て出場しますが、春の大会については、地区ごとに行われる秋の試合結果及び成績によって出場校が決まるそうです(佐賀県の場合は九州大会)。したがって、春の大会は、各県から必ず一校、代表校が出場するわけではないということです。
今年の春の大会については、佐賀県勢の出場はありませんでした。佐賀県勢の春の大会への出場率はあまり高くないように思えます。秋の地区大会でも、鳥栖商業高校が1回戦で敗退しています。
2007年の夏の大会では、佐賀北高校が優勝を飾り、1994年には佐賀商業高校が優勝を飾っています。佐賀県勢が甲子園を沸かすのはほとんどありませんが、それもまた佐賀県らしいのではないかと思います。甲子園に出場する高校の大多数が、県外から優秀な選手をかき集めているそうです。また、私立の学校は、学習はそこそこに、野球ばかりをやらせている学校すらあります。一方、佐賀北高校にしても、佐賀商業高校にしても、普通で無名の野球少年が学業を掛け持ちで練習し、甲子園で勝ち抜いていく・・・佐賀県には甲子園常連の強豪校はありませんが、高校野球らしさ、高校野球の本来の趣旨を実直に守っているのは、佐賀県が一番なのではないでしょうか。
個人的には祖父の母校である佐賀西高校の甲子園での活躍を見てみたいものです。ちなみに、佐賀西高校の公式戦ユニフォームには、「EIJYO」というロゴが入っています。これは、藩校弘道館に流れを受け継ぐ旧制佐賀中学校以来の伝統で、「EIJYO」とは、佐賀城の別名「栄城」のことです。
主宰者拝
先週は海外出張に行っていたため、Blogの更新が久しぶりとなりました。皆様いかがお過ごしでしょうか?
さて、先日、春の甲子園高校野球の出場校が決定したとのニュースがありました。夏の甲子園高校野球は、各県から代表校が予選を経て出場しますが、春の大会については、地区ごとに行われる秋の試合結果及び成績によって出場校が決まるそうです(佐賀県の場合は九州大会)。したがって、春の大会は、各県から必ず一校、代表校が出場するわけではないということです。
今年の春の大会については、佐賀県勢の出場はありませんでした。佐賀県勢の春の大会への出場率はあまり高くないように思えます。秋の地区大会でも、鳥栖商業高校が1回戦で敗退しています。
2007年の夏の大会では、佐賀北高校が優勝を飾り、1994年には佐賀商業高校が優勝を飾っています。佐賀県勢が甲子園を沸かすのはほとんどありませんが、それもまた佐賀県らしいのではないかと思います。甲子園に出場する高校の大多数が、県外から優秀な選手をかき集めているそうです。また、私立の学校は、学習はそこそこに、野球ばかりをやらせている学校すらあります。一方、佐賀北高校にしても、佐賀商業高校にしても、普通で無名の野球少年が学業を掛け持ちで練習し、甲子園で勝ち抜いていく・・・佐賀県には甲子園常連の強豪校はありませんが、高校野球らしさ、高校野球の本来の趣旨を実直に守っているのは、佐賀県が一番なのではないでしょうか。
個人的には祖父の母校である佐賀西高校の甲子園での活躍を見てみたいものです。ちなみに、佐賀西高校の公式戦ユニフォームには、「EIJYO」というロゴが入っています。これは、藩校弘道館に流れを受け継ぐ旧制佐賀中学校以来の伝統で、「EIJYO」とは、佐賀城の別名「栄城」のことです。
主宰者拝
2009年01月08日
陽泰院夫人の御命日
こんばんは。
今日は、佐賀藩祖鍋島直茂公の正室陽泰院夫人の命日になります。直茂公は西海の智将として名を馳せた、龍造寺家の武将から雄藩の藩祖となった立志伝中の人物です。その直茂公を陰で支えた賢夫人が陽泰院夫人でありました。

陽泰院夫人は、本名は彦鶴姫、別名は藤の方。天文10年(1541)、龍造寺家の重臣石井常延の次女として生まれ、はじめは納富家に嫁ぐも、夫が戦死したので、29歳の時に直茂公と結婚しました。しかも戦国時代には珍しい恋愛結婚であったそうです。以来、公と夫人は終世夫婦仲がよく、それは前田利家と芳春院、山内一豊と見性院の有名戦国カップルに並び称されるほどであったそうです。
陽泰院夫人は、寛永6年(1629)1月8日(旧暦では現在の2月1日)に89歳の天寿を全うしています。直茂公に先立たれて11年後のことです。晩年は直茂公の菩提を弔いながら穏やかな日々を送ったことでしょう。
なお、私の実家は、藩政時代の一時期、断絶をしていますが、陽泰院夫人の150年忌法要に際して、夫人の連肢である由緒により再興を許され、200年忌法要に際しては家禄の加増を受けています。まさに我が家が今あるのも、夫人のお陰ということです。
写真は佐賀県佐賀市本庄にある佐賀藩主鍋島家の菩提寺高伝寺境内の直茂公と陽泰院夫人の墓地です。左側が公で、右側が夫人です。夫人の墓石は、かつて公が朝鮮に出陣した際、陣中で一夜の枕とした石を持ち帰り、その石で夫人のお墓を建てたものです。
今日はそんな陽泰院夫人の逝去から380年経った日です。
主宰者拝
今日は、佐賀藩祖鍋島直茂公の正室陽泰院夫人の命日になります。直茂公は西海の智将として名を馳せた、龍造寺家の武将から雄藩の藩祖となった立志伝中の人物です。その直茂公を陰で支えた賢夫人が陽泰院夫人でありました。

陽泰院夫人は、本名は彦鶴姫、別名は藤の方。天文10年(1541)、龍造寺家の重臣石井常延の次女として生まれ、はじめは納富家に嫁ぐも、夫が戦死したので、29歳の時に直茂公と結婚しました。しかも戦国時代には珍しい恋愛結婚であったそうです。以来、公と夫人は終世夫婦仲がよく、それは前田利家と芳春院、山内一豊と見性院の有名戦国カップルに並び称されるほどであったそうです。
陽泰院夫人は、寛永6年(1629)1月8日(旧暦では現在の2月1日)に89歳の天寿を全うしています。直茂公に先立たれて11年後のことです。晩年は直茂公の菩提を弔いながら穏やかな日々を送ったことでしょう。
なお、私の実家は、藩政時代の一時期、断絶をしていますが、陽泰院夫人の150年忌法要に際して、夫人の連肢である由緒により再興を許され、200年忌法要に際しては家禄の加増を受けています。まさに我が家が今あるのも、夫人のお陰ということです。
写真は佐賀県佐賀市本庄にある佐賀藩主鍋島家の菩提寺高伝寺境内の直茂公と陽泰院夫人の墓地です。左側が公で、右側が夫人です。夫人の墓石は、かつて公が朝鮮に出陣した際、陣中で一夜の枕とした石を持ち帰り、その石で夫人のお墓を建てたものです。
今日はそんな陽泰院夫人の逝去から380年経った日です。
主宰者拝
2009年01月04日
天地人
皆様、こんばんは。
年末年始のお休みも今日が最後ですね。いつになっても、明日が会社、という休暇の最終日は気が重いものです。年末年始のお休み、皆様はいかがお過ごしでしたでしょうか。
さて、今日からスタートしたNHK大河ドラマ「天地人」は、上杉景勝の家臣直江兼続の生涯を描いた作品でありますが、この兼続は、なかなかの名将で、天下人・太閤秀吉も一目を置いた、というより、直参に召抱えたいと思ったほどの器量の持ち主であったことは知られているとおりです。
であるならば、我らが藩祖鍋島直茂公もまた、秀吉に器量を認められた名将で、天下の七軍師に数えられるほどでした。「葉隠」聞書第10には、次のような逸話があります。
ある日、秀吉にお伽の衆が尋ねました。
「殿下、今の世に天下をとるような器量を持った大名はおられますでしょうか?」
すると秀吉は、
「うむ、天下を取るには大気(度量が広いこと)、勇気、知恵・・・この3つがなければならぬ。この3つを備えた大名はおらぬ。されど陪臣には2つずつ持った者が3人おるわ。一人目が上杉家の直江兼続。これは大気と勇気はあるが、知恵が釣り合わぬ。二人目の毛利家の小早川隆景。やつは大気と知恵はあるが勇気が今一つじゃ。あと一人は龍造寺家の鍋島直茂じゃ。こいつは勇気と知恵はあるが大気がないのじゃ。じゃがな、大名にはこれほどの者もおらんのじゃ」
と話したそうです。
太閤秀吉は、裸一貫で天下人になったので、いわゆる父祖伝来の譜代家臣を持っていませんでした。それゆえに、優秀な人材を発掘するのに優れていて、陪臣でも有能な武将を見出しては、直接主従関係を結ぼうとし、豊臣家恩顧の武将を作ろうとしました。直江もそうであったし、小早川は毛利家の分家でありながら、豊臣家の中枢にあって秀吉を補佐しました。鍋島もまた、九州の国割りの際、龍造寺家とは別に秀吉から直接知行地を与えられ、大名に列したことなどからも、この逸話も信憑性が高いといえるでしょう。
なお、上杉家と鍋島家も、初代藩主鍋島勝茂公の姫(市姫)が、米沢藩第二代藩主上杉定勝の正室に迎えられ、第二代藩主鍋島光茂公の正室には定勝の姫(虎姫/柳線院)が嫁いでいます。佐賀と米沢も歴史的につながりが深いようです。
主宰者拝
年末年始のお休みも今日が最後ですね。いつになっても、明日が会社、という休暇の最終日は気が重いものです。年末年始のお休み、皆様はいかがお過ごしでしたでしょうか。
さて、今日からスタートしたNHK大河ドラマ「天地人」は、上杉景勝の家臣直江兼続の生涯を描いた作品でありますが、この兼続は、なかなかの名将で、天下人・太閤秀吉も一目を置いた、というより、直参に召抱えたいと思ったほどの器量の持ち主であったことは知られているとおりです。
であるならば、我らが藩祖鍋島直茂公もまた、秀吉に器量を認められた名将で、天下の七軍師に数えられるほどでした。「葉隠」聞書第10には、次のような逸話があります。
ある日、秀吉にお伽の衆が尋ねました。
「殿下、今の世に天下をとるような器量を持った大名はおられますでしょうか?」
すると秀吉は、
「うむ、天下を取るには大気(度量が広いこと)、勇気、知恵・・・この3つがなければならぬ。この3つを備えた大名はおらぬ。されど陪臣には2つずつ持った者が3人おるわ。一人目が上杉家の直江兼続。これは大気と勇気はあるが、知恵が釣り合わぬ。二人目の毛利家の小早川隆景。やつは大気と知恵はあるが勇気が今一つじゃ。あと一人は龍造寺家の鍋島直茂じゃ。こいつは勇気と知恵はあるが大気がないのじゃ。じゃがな、大名にはこれほどの者もおらんのじゃ」
と話したそうです。
太閤秀吉は、裸一貫で天下人になったので、いわゆる父祖伝来の譜代家臣を持っていませんでした。それゆえに、優秀な人材を発掘するのに優れていて、陪臣でも有能な武将を見出しては、直接主従関係を結ぼうとし、豊臣家恩顧の武将を作ろうとしました。直江もそうであったし、小早川は毛利家の分家でありながら、豊臣家の中枢にあって秀吉を補佐しました。鍋島もまた、九州の国割りの際、龍造寺家とは別に秀吉から直接知行地を与えられ、大名に列したことなどからも、この逸話も信憑性が高いといえるでしょう。
なお、上杉家と鍋島家も、初代藩主鍋島勝茂公の姫(市姫)が、米沢藩第二代藩主上杉定勝の正室に迎えられ、第二代藩主鍋島光茂公の正室には定勝の姫(虎姫/柳線院)が嫁いでいます。佐賀と米沢も歴史的につながりが深いようです。
主宰者拝
2009年01月01日
謹賀新年
皆様、新年明けましておめでとうございます。
昨年は大変お世話になり、ありがとうございました。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

武家では新年を迎えるにあたり、先祖伝来の甲冑を床の間に飾り、その年の武運長久を願ったそうです。その習慣を重んじ、我が家でも、一族の幸福、関係する皆様の幸福、郷土佐賀が益々栄えることを祈念して、甲冑を飾りました。
今年も皆様とともに素敵な一年を過ごしていけたらと思っています。
主宰者拝
昨年は大変お世話になり、ありがとうございました。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
武家では新年を迎えるにあたり、先祖伝来の甲冑を床の間に飾り、その年の武運長久を願ったそうです。その習慣を重んじ、我が家でも、一族の幸福、関係する皆様の幸福、郷土佐賀が益々栄えることを祈念して、甲冑を飾りました。
今年も皆様とともに素敵な一年を過ごしていけたらと思っています。
主宰者拝
2008年12月24日
昭和7年(1932)頃の「KNC」の佐賀県出身者
こんにちは。主宰者の石井です。
昨日、このBlogで佐賀県出身の森武海軍少佐について紹介しましたが、森氏の母校である現在の国立神戸大学海事科学部(旧制官立神戸高等商船学校=Kobe Nautical College【KNC】)は、佐賀県からも多くの進学者があったようです。ウェブサイトで紹介している石井利雄海軍中尉もまた、佐賀県出身で、佐賀県立佐賀中学校(現在の県立佐賀西高校)からKNCに進んでいます。思えば、幕末の時代、佐賀藩では第10代藩主鍋島閑叟公の指揮の下、近代的な造船・造機、操船の技術移入や教育が盛んで、自前で造船所や海軍学校を作ってしまったほどでした。KNCに佐賀県出身者が多いのも、その影響が少なからずあるのではないでしょうか。

上の写真は、当時のKNCの本館校舎です。現在は国立神戸大学深江キャンパスになっています。本館の建物は昭和20年(1945)に二度にわたる空襲を受けて焼失し、現存していません。

上の写真は、昭和7年頃のKNCの佐賀県出身の生徒たちです。この中には、昭和9年(1934)卒業の森武氏も含まれているものと思います。この写真の中の若者たちも、数年後に勃発する太平洋戦争に多くが動員され、中には戦死された方もおられるそうです。
今の日本の礎に、佐賀人の先輩たちの血と汗がたくさんにじんでいることを我々も誇りに思いたいものですね。
主宰者拝
昨日、このBlogで佐賀県出身の森武海軍少佐について紹介しましたが、森氏の母校である現在の国立神戸大学海事科学部(旧制官立神戸高等商船学校=Kobe Nautical College【KNC】)は、佐賀県からも多くの進学者があったようです。ウェブサイトで紹介している石井利雄海軍中尉もまた、佐賀県出身で、佐賀県立佐賀中学校(現在の県立佐賀西高校)からKNCに進んでいます。思えば、幕末の時代、佐賀藩では第10代藩主鍋島閑叟公の指揮の下、近代的な造船・造機、操船の技術移入や教育が盛んで、自前で造船所や海軍学校を作ってしまったほどでした。KNCに佐賀県出身者が多いのも、その影響が少なからずあるのではないでしょうか。

上の写真は、当時のKNCの本館校舎です。現在は国立神戸大学深江キャンパスになっています。本館の建物は昭和20年(1945)に二度にわたる空襲を受けて焼失し、現存していません。

上の写真は、昭和7年頃のKNCの佐賀県出身の生徒たちです。この中には、昭和9年(1934)卒業の森武氏も含まれているものと思います。この写真の中の若者たちも、数年後に勃発する太平洋戦争に多くが動員され、中には戦死された方もおられるそうです。
今の日本の礎に、佐賀人の先輩たちの血と汗がたくさんにじんでいることを我々も誇りに思いたいものですね。
主宰者拝
2008年12月21日
師走を迎えて。
皆様、大変ご無沙汰しております。主宰者の石井でございます。
小生、このところ大変多忙につき、ウェブサイトの更新もままならず、日頃よりウェブサイトの運営にご協力いただいている皆様、ご愛顧いただいている皆様には、大変失礼いたしました。
季節も早いもので師走を迎えましたが、皆様、いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか? 今年も一年、大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
来年はウェブサイトの大幅なリニューアルを考えております。従来、できるだけ多く、詳細な情報を発信してまりましたが、今後はもう少し、シンプルに、それでありながら、一般の方にも親しみを感じてもらえるウェブサイトにしていきたいと考えています。皆様のご意見やご助言、お待ちしております。
中断していた「葉隠日誌」もこの“さがファン”ブログに移設し、できるだけ頻繁に記事を書いていきたいと思っています。皆様のご愛読をよろしくお願いいたします。
■佐賀鍋島藩石井家オフィシャルウェブサイト(http://jp.nabeshima-ishii.com)
主宰者拝
小生、このところ大変多忙につき、ウェブサイトの更新もままならず、日頃よりウェブサイトの運営にご協力いただいている皆様、ご愛顧いただいている皆様には、大変失礼いたしました。
季節も早いもので師走を迎えましたが、皆様、いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか? 今年も一年、大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
来年はウェブサイトの大幅なリニューアルを考えております。従来、できるだけ多く、詳細な情報を発信してまりましたが、今後はもう少し、シンプルに、それでありながら、一般の方にも親しみを感じてもらえるウェブサイトにしていきたいと考えています。皆様のご意見やご助言、お待ちしております。
中断していた「葉隠日誌」もこの“さがファン”ブログに移設し、できるだけ頻繁に記事を書いていきたいと思っています。皆様のご愛読をよろしくお願いいたします。
■佐賀鍋島藩石井家オフィシャルウェブサイト(http://jp.nabeshima-ishii.com)
主宰者拝