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Posted by さがファンブログ事務局 at

2008年12月30日

李香蘭と佐賀

山口淑子さんの『「李香蘭」を生きて』を最近読みました。




李香蘭といえば、戦前、日本と中国で一世を風靡した大スター。戦後は山口(大鷹)淑子として、参議院議員となって活躍した女性です。母国は中国、祖国は日本-という特殊なアイデンティティーを持つ彼女の生涯は、本当の意味で「波乱」と言えるのではないでしょうか。過去の日中の不幸な歴史の象徴的な前半生ですが、彼女の手記を読むと、彼女であればこそこうした波乱の人生を生き抜くことができた、と思えてきます。人とは不思議なもので、「持って生まれたもの=天賦の才とでもいいましょうか・・・」に応じた人生があるんだなと感じます。

さて、李香蘭こと山口淑子女史は、佐賀県にゆかりのある方でもあります。お父上の山口文雄氏は独学で中国語を学び、中国に渡ってからは満鉄で職員に対して中国語や中国事情を教える仕事に就いていたそうです。文雄氏は佐賀県杵島郡北方村(現在は武雄市)の出身で、もともと佐賀藩士族の家とのことです。

山口女史が日本の敗戦後、漢奸罪で中国国民党当局に逮捕され、軍事裁判にかけられます。家族からは、本籍地である佐賀県杵島郡北方村長の公印のある戸籍簿が法廷に提出されました。そのことで、李香蘭が日本人であることが証明され、漢奸罪の適用が免れたといわれています。しかし、中国軍の裁判官は、法的な罪はないとしながらも、中国名を芸名で名乗り、中国人として日本のプロパガンダ映画に出た道義的責任はあるとコメントしたそうです。また、当局者からは日本人であっても中国に育てられたことを忘れないでほしいとコメントもあったそうです。きっと、この言葉は山口女史の後半生にとってとても大切な言葉になったのでしょう。

李香蘭こと山口淑子女史の波乱の生涯は、日中関係の重要な歴史となるに違いありません。
なお、昨日と本日、テレビ東京で2月に放映されたドラマ「李香蘭」(上戸彩さん主演)の再放送がありました。

主宰者拝
  


Posted by 石井和泉 at 17:18Comments(0)人物紹介

2008年12月29日

吉岡安直陸軍中将の話

今、『満州国皇帝の秘録-ラストエンペラーと「厳秘会見録の謎」』(中田整一著)という本を読んでいます。




吉岡安直陸軍中将という陸軍の将軍のことを皆さんはご存知でしょうか? 実はこの将軍、満州国皇帝であった溥儀氏の御用掛として日本陸軍関東軍から派遣された人物です。溥儀氏やその弟溥傑氏の後の著述などから、この吉岡将軍が関東軍の威光を背景にさんざん横暴な振る舞いがあったとして、ドラマや書籍などでも、悪役のレッテルを貼られています。溥傑氏の妻浩(嵯峨侯爵家の令嬢)の著作でも、辛口に書かれています。

吉岡将軍は、九州の大分県の生まれですが、長じて佐賀県の吉岡家に養子入りしているため、本籍は「佐賀県」となっていて、資料にっては「佐賀県出身」としているものもあります。

吉岡将軍は、上述のとおりいわゆる「悪役」のレッテルを貼られていたのですが、実はちょっと違うようです。吉岡将軍は、関東軍と皇帝溥儀氏の間で板挟みとなり苦悩していたことや、溥儀氏に忠誠を尽くしていたこと、溥儀氏と趣味を同じくしその話題で親しく会話していることなどの秘話があり、溥儀氏もとても頼りにしておられたそうです。そのような話から、決して悪い人物ではなかったようです。溥儀氏も後になって、自己保身のために吉岡将軍を悪者にしたことを悔いる発言があったそうです。

吉岡安直陸軍中将の話は、『満州国皇帝の秘録-ラストエンペラーと「厳秘会見録の謎」』に詳しく書かれています。佐賀県にゆかりのある人物として、吉岡将軍の本来の人物像が明らかになるといいなと思います。しかし、後年に溥傑氏に吉岡将軍の遺族からの手紙を手渡した際、溥傑氏は喜ばなかったというエピソードもあり、吉岡将軍も良い部分もあった一方で、陸軍の威光を背景に横柄な振る舞いもあったのもまた事実のようです。吉岡将軍は、溥儀・溥傑両氏とともにソ連軍に逮捕されて、シベリアに送られ、モスクワで病死しています。

主宰者拝
  


Posted by 石井和泉 at 23:59Comments(1)人物紹介

2008年12月23日

葉隠に生きる-森武氏

今日は天皇誕生日(天長節)であると同時に、目立たずも、東条英機元総理ら、極東国際軍事裁判(東京裁判)で絞首刑判決を受けたA級戦犯7氏の命日でもあります。

報道では陛下がこのところ体調を崩されているとの由。ご快復を祈念するとともに、陛下のお言葉である「英知を結集し・・・」と不況時代の国民へ贈られた激励のお言葉も胸に刻みたいところです。





さて、今日は佐賀県出身の森武氏について紹介したいと思います。この名を聞いたことがある方はほとんどおられないと思いますが、森氏は生前『葉隠に生きる』という自叙伝を執筆されています。

森氏は、明治43年(1910)に佐賀県に生まれ、現在の神戸大学海事科学部(当時の官立神戸高等商船学校航海科)を昭和9年(1934年)に卒業され、翌年、川崎汽船株式会社に入社。昭和15年(1940)、海軍に応召し、戦争末期は海軍の海防艦82号の艦長をされていました。

終戦直前に、ソビエト連邦が我が国へ宣戦布告し、参戦。その頃、朝鮮の清津から日本に向けて出港した貨物船「向日丸」を護衛するため、森艦長が指揮を執る海防艦82号が随伴し、日本海上にありました。ソ連の攻撃機が、向日丸を攻撃した際、護衛の海防艦82号が果敢に応戦、向日丸の楯となって沈没。森艦長は海に投げ出されて、向日丸によって救出されました。このとき、犠牲を顧みず貨物船を守って、みずからの任務を全うするその心意気と行動に、向日丸の乗組員が大変感激したそうです。

森氏は、海軍少佐で終戦を迎え、その後、海上保安庁に奉職。各地の保安部長、巡視船長を歴任し、退官後は大阪造船所、太平洋汽船に勤務し、さらに茨城県日立港水先案内人などをつとめられ、平成4年(1993)に逝去されています。

詳しくは、「硝煙の海」という向日丸元通信士の方が主宰するウェブサイトに詳しく載っていますので、ぜひ一度ご覧ください。自伝の『葉隠に生きる』というタイトルにもありますとおり、森氏もまた、佐賀の精神文化「葉隠」のこころを大切にし、その精神を体現した方であったといえましょう。森氏のことは今度調べて、随筆でも書きたいと思っています。

主宰者拝


【訂正】
向日丸について、上記文章では、朝鮮清津港から海防艦第82号とともに出港した旨、記載しておりますが、事実はソ連軍機の空襲により、羅津港から退避した向日丸を、沈没した輸送船の救助活動のため作戦行動中だった第82号海防艦が発見し、向日丸の護衛についた、というのが正しいとのことです。お詫びして訂正いたします。
  


Posted by 石井和泉 at 18:36Comments(5)人物紹介
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