2009年01月08日
陽泰院夫人の御命日
こんばんは。
今日は、佐賀藩祖鍋島直茂公の正室陽泰院夫人の命日になります。直茂公は西海の智将として名を馳せた、龍造寺家の武将から雄藩の藩祖となった立志伝中の人物です。その直茂公を陰で支えた賢夫人が陽泰院夫人でありました。
陽泰院夫人は、本名は彦鶴姫、別名は藤の方。天文10年(1541)、龍造寺家の重臣石井常延の次女として生まれ、はじめは納富家に嫁ぐも、夫が戦死したので、29歳の時に直茂公と結婚しました。しかも戦国時代には珍しい恋愛結婚であったそうです。以来、公と夫人は終世夫婦仲がよく、それは前田利家と芳春院、山内一豊と見性院の有名戦国カップルに並び称されるほどであったそうです。
陽泰院夫人は、寛永6年(1629)1月8日(旧暦では現在の2月1日)に89歳の天寿を全うしています。直茂公に先立たれて11年後のことです。晩年は直茂公の菩提を弔いながら穏やかな日々を送ったことでしょう。
なお、私の実家は、藩政時代の一時期、断絶をしていますが、陽泰院夫人の150年忌法要に際して、夫人の連肢である由緒により再興を許され、200年忌法要に際しては家禄の加増を受けています。まさに我が家が今あるのも、夫人のお陰ということです。
写真は佐賀県佐賀市本庄にある佐賀藩主鍋島家の菩提寺高伝寺境内の直茂公と陽泰院夫人の墓地です。左側が公で、右側が夫人です。夫人の墓石は、かつて公が朝鮮に出陣した際、陣中で一夜の枕とした石を持ち帰り、その石で夫人のお墓を建てたものです。
今日はそんな陽泰院夫人の逝去から380年経った日です。
主宰者拝
今日は、佐賀藩祖鍋島直茂公の正室陽泰院夫人の命日になります。直茂公は西海の智将として名を馳せた、龍造寺家の武将から雄藩の藩祖となった立志伝中の人物です。その直茂公を陰で支えた賢夫人が陽泰院夫人でありました。
陽泰院夫人は、本名は彦鶴姫、別名は藤の方。天文10年(1541)、龍造寺家の重臣石井常延の次女として生まれ、はじめは納富家に嫁ぐも、夫が戦死したので、29歳の時に直茂公と結婚しました。しかも戦国時代には珍しい恋愛結婚であったそうです。以来、公と夫人は終世夫婦仲がよく、それは前田利家と芳春院、山内一豊と見性院の有名戦国カップルに並び称されるほどであったそうです。
陽泰院夫人は、寛永6年(1629)1月8日(旧暦では現在の2月1日)に89歳の天寿を全うしています。直茂公に先立たれて11年後のことです。晩年は直茂公の菩提を弔いながら穏やかな日々を送ったことでしょう。
なお、私の実家は、藩政時代の一時期、断絶をしていますが、陽泰院夫人の150年忌法要に際して、夫人の連肢である由緒により再興を許され、200年忌法要に際しては家禄の加増を受けています。まさに我が家が今あるのも、夫人のお陰ということです。
写真は佐賀県佐賀市本庄にある佐賀藩主鍋島家の菩提寺高伝寺境内の直茂公と陽泰院夫人の墓地です。左側が公で、右側が夫人です。夫人の墓石は、かつて公が朝鮮に出陣した際、陣中で一夜の枕とした石を持ち帰り、その石で夫人のお墓を建てたものです。
今日はそんな陽泰院夫人の逝去から380年経った日です。
主宰者拝
Posted by 石井和泉 at 23:15│Comments(0)
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